「……良いことって、何なんだろうな」
寝床に身を預けたまま、緋凌はぼんやりとした顔つきで言った。春螺は傍らで裸身を起こし、そんな緋凌を見下ろす。
「緋凌?」
「俺は気読みの家系に生まれてきて、家業を継いだ。それは俺自身が望んだことでも、選んだことでもなかったけれども、それでも己の責務を果たしたいと思っている。気読みとして、神職として、村の行く末を預かる責任者の一人として、村と村の人たちにできうる限り良いことをしたいと、いつも思う。だけど……良いこととは、一体なんだろう」
先刻の緋凌の苦悩と涙。選択と悔い。涙が伝った跡ももう消えた頬に唇を寄せ、春螺は切なげにもらす。
「お前はお前に適うかぎりのことをしているではないか」
「自分が怠慢だとは思わないがな、俺の考える『良いこと』と、村の皆が望む『良いこと』とは、果して同じものなんだろうか」
小さなため息と共にもらされた言葉に、春螺は沈黙した。
「再三再四言うように、俺は田畑のことは何一つ判らん。だから村の連中が語る苦労の話も、頭では理解してるつもりでも、結局は実感できてないんだろう。逆もまた然りだから、それは認めざるを得ない」
「……ああ」
「俺は俺で考えられる限りの『良いこと』をしようとするが、果してそれが村の連中に対しても『良いこと』なのかどうなのか……前々から思っていたことだけれども、さすがに今回の一件で判らなくなった」
いつもの苦笑とともに、緋凌は偽りない本音をもらす。
「俺は良かれと思ってやったことも、もしかしたら村の連中には押しつけでしかなかったのかもしれない。俺が疎ましく感じたことも、もしかしたら連中には善意だったのかもしれない。今となっては、確かめようのないことばかりだが」
そんなことない、とは春螺には言えなかった。それは自分が言うには、あまりにも無責任な言葉だった。
「お前が俺たちを助けようとしてくれたのも、間違いなく良かれと思ってのことだろう。その気持ちは、ありがたいと思う。だが、俺はお前の力にすがるのは甘えでしか、堕落でしかないと思う。容赦がないが、それが俺の『良かれ』だ。だが、村の連中――と全員を一括りにするのもよくないのだろうが、俺以外の人間にとっての『良い』が果してなんだったのかは……正直判らない。ただ、誰も、悪意なんてこれっぽっちもなくて、みんな最善を考えたのに……こんなにも、すれ違っていくんだ」
諦めと疲れと苦悩が当分に混じり合った、複雑な表情を緋凌はした。その目が辛くて、春螺は視線をそらした。
自分までも、目の奥が熱くなってくるようで。
「全てにおいて、絶対的に『良い』ことなんて、この世には一つもないんだろう。けれども……」
不意に言葉がとぎれ、次の言葉はずいぶんと返ってこなかった。
「緋凌?」
訝しがって視線を戻すと、声の主は小さな寝息をたてていた。拍子抜けした後、春螺は小さく笑って、毛布をむき出しの肩まで引き寄せてかけてやった。
くたびれ果てた夜も更けて、目を覚ます頃には朝になっているだろう。そして朝になれば、またいつもと変わらぬぶっきらぼうな彼に戻ることだろう。
それでも、今日一日の――今夜の記憶は残る。
「良い、とは確かに一体何だろうな……緋凌」
緋凌の寝顔を見ながら、春螺もまた小さく呟いた。
風は最後の音をたてながら、静かに遠ざかっていった。