大嵐の後片付けに追われた秋は瞬く間に過ぎ、冬が訪れた。緋凌の暮らす人界の村は雪はほとんど降らなかったが、そのかわり凍てついた乾いた風が絶え間なく吹きつけ、全てを凍らせた。
犠牲者まで出した大嵐の後、村人と緋凌の間にどんなやりとりがあったか、春螺は知らない。緋凌は自分から話すことはなかったし、春螺も敢えて問うことはなかった。そして緋凌が取り乱したり激しく落ち込んだりすることもなかったから、大きな騒動はなかったのだろうと春螺は推測している。
勿論何もなかったと思うほど、春螺は楽天家ではない。無言や視線が語ったであろうものを考える。けれども緋凌が言わないことをことさら追求するほど、彼女は無神経ではなかった。
したがって、表面上は以前と変わらぬ日々が続いた。
そして緋凌は予想した通り、村人から年貢を受け取ろうとしなかった。村人たちは打撃を受けた収穫の中から、それでも例年と同じだけの穀物を緋凌の元に持参したが、彼はそれを頑として受け取らなかった。
だが、受け取らなければ彼が飢える。彼の死は――気読みを失うことは、本人がどう思っているかはともかく、村人にとっては当座迷惑なはずだ。両者譲らぬ喧々囂々のやりとりを見かね、とうとう春螺は緋凌を物陰に引きずり込んだ。
「お前は私の施しで、仙界のうまいものが食えるから、年貢などいらぬのだと言われるぞ。それでもいいのか?」
この言葉に、緋凌は引かざるを得なかった。
それでも緋凌は、完全には妥協しなかった。いつもの七割――それは一人の人間が飢えるか飢えないか、ぎりぎりの量だ。
「お前は『食わず女房』だからいいな」
「私は、結った髪をほどいても、頭の後ろから口が現れたりしないから、安心しろ」
人界に伝わる昔話になぞられて言う緋凌に、調子に乗って春螺は答え、ふと気づいた。
「お前がひょっとして女房をもらわなかったのは、そのせいか?」
春螺の問いに、緋凌はしばし沈黙した。それは言いにくい本音であることは、表情から一発で見て取れた。
「俺は己の務めが不要であるとは思っていないが、果たしてこんな風に全ての稼ぎを放棄し、皆に養われるほどの価値のあることなのか、正直疑問だ」
ぽつり、と緋凌は誰にも明かさない本音を、春螺にもらした。
「鍬を持って田畑を耕す以上に大事なことが、この世に果たしてあるんだろうか。自分と自分の家族が生きていくために食べるものを作る、それ以上に重要で価値のある仕事なんて、果たしてあるんだろうか」
「……お前の務めは、そういった者たちを支えるためにあるのだろう?」
「それはそうだし、いまさら己の道と己を否定はできんよ。だが、己だけではなく己の妻も子も養ってもらって、ふんぞりかえっていられるほどのことをしている気には、到底なれん」
緋凌の言葉は、彼の屈託を表していた。
彼の心の底には、懐疑や劣等感があって、けれどもそれをあからさまにすることは許されないから、だから己を嗤うのだ。
崇められれば、持ち上げられれば、たまらないから己を嗤うより仕方がないのだろう。
「それにしても、お前は何も食わないが、本当にそれで生きていけるのか?」
「肉体があった時の名残で、昔できたことは何でもできるが、やらなければ生きていけないということはない。……そういう意味では、もはや生き物ではないのかもしれんな」
「肉体が、ない?」
「半年も暮らしていたのに、話したことはなかったな。私が――神仙というものが、どういうものなのか。神仙が暮らす世界。この世の成り立ち――どうせ時間もある。そういった話をしよう」
春螺は火のそばの敷物に腰を下ろすと、緋凌を招く。彼女は寒さを感じはしないが、それでも暖の前は人のいる場所らしく、憩う気持ちになれる。
「この世界は、『虚空』に無数の『界』が浮かぶ形で成っている。数は数えたことがないし、大きさも色々。そこに住んでいる生き物も、まあ様々だな。我々神仙の界は便宜上『神仙界』もしくは『神界』と呼ばれているし、ここを含めて仙のいない界を『人界』と呼んでいる」
「全ての世界と生き物は、同時に生まれたのか? それとも、どこかが先に成ったのか?」
「私もこの目で見たわけではなく、話だけだから真実は判らないのだが、父上が語ってくださった話では、世界はまず神仙界のほんの一部分から成ったそうだ」
それは神仙界の東――春螺の封土のすぐ近くに存在する。
「神仙は人と同じく、親の腹から生まれることがあるが、それは少数で、大抵は蓮花から生まれてくる。その蓮が咲く神界の池が、まず一番最初に成ったと」
「蓮から生まれる? 親もなく?」
「大抵は。神仙同士が交われば子を生すことも叶い、そうやって私も生まれたのだが、そういう事例は多くない。大抵は、蓮花から独りで生まれてくる」
驚く緋凌に、春螺は柔らかく笑い、続ける。
「私の父は、ごく早い時期に生まれた神仙だ。父と同時期に生まれた幾人の神仙より、他に生き物はいなかったと言っている。父が生まれた時、自分たちがいる界はちっぽけで、蓮池とそのほとりのわずかな土地しかなかったそうな。そして虚空には、広大で荒涼として草木一本生えない不毛な界が、無数に浮かんでいたそうだ」
春螺の話に、緋凌は黙って耳を傾けている。
「しばらく父たちは蓮池のほとりで考えたそうだ。どうして自分たちは、この蓮から生まれてきたのか。この蓮は何なんだ。この界と不毛な無数の界は一体。世界とはどうなっているのだ。自分たちとは何なんだ――予想がつく通り、答えが出る問いではないな。神と呼ばれる我らとて、判ることではないよ。ただ、父上たちはふとあることに思い至ったらしい。この全ての界は、自分たちより先に生まれた何かが、残したのではないかと」
この春螺の言葉は、緋凌には理解できなかったらしい。無言の問いに、春螺は続きを聞けとばかりに頷く。
「悪いが少し話は飛ぶ。神仙がどんな存在かと言うと、それは『力で己を構成することが叶うが故に、己の基盤である肉体を捨てたもの』だ。自分を構成する基本は、やはり肉体だ。けれどもその肉の上で作られた『心』と『力』があまりにも強大になったため、それだけで肉体とそっくり同じ形を作り上げられるようになったものだ」
「……訳判らん」
「こう考えると楽だ。力と肉の関係は、刺繍によく似ている。肉という布の上に刺繍を刺していくと、布は丈夫になっていくだろう? それを隙間なく施していくと、もう元の布地は見えなくなる。こうなれば、かなりの力を加えても、布地は傷まない。それでもまだまだ刺し続けられるだけの糸があるなら、いっそ布などいらない。布に刺された糸を全部外して、その糸を編んでしまえばいい。それでも、外見は刺繍の時と全く変わらないだろう? そういう風にして我らは肉を捨て、力で己を編んで成っている」
「……ちょっと待てよ。それでは捨てた肉はどうなった? まさか己の体がぐずぐず腐っていくのを、黙って見ていたわけはなかろう」
考え込んで言った緋凌に、春螺は破顔する。緋凌は時折、凄まじく聡い。己の心の先の先まで読むように。
「捨てた肉は、やがて界に化けた」
「……ああ」
納得と感嘆に満ちた声を上げる緋凌に、春螺は補足した。
「父たちは、そうしてできた自分の界をそれぞれ、蓮池の界につなげた。暮らしていくには、あまりにも狭かったからな。かくして蓮から生まれてきた神仙たちがそれぞれ己の肉を界に転じさせ、つなげていき、神仙界が成った。無論、それを拒んで孤高の道を選び、己の界を――それを『封土』と呼ぶが、虚空をさまよわせているものも、いないではないがな」
一端区切って、春螺は告げる。
「さて、ここで話は脱線する前に戻る。父上たちは、己の封土をそれぞれつなげた後、考えた。己の封土は、己とつながっている。己が安定を乱せば、てきめん封土が荒れる。ならば、虚空に漂うこの無数の界は、一体何だろう。この界は、誰かの封土なのだろうか? 界すら生み出せる我ら生み出す蓮は、なぜ存在するのだろう?」
「……それで、先人か。不毛の界を生み出した、誰かがいるのではないかと」
「それは推測でしかない。確証はない。けれども、不毛の土地は長い時間のうちに、命を芽生えさせた。何が最初の生物だったのか、我らすら関知しえないうちに。命の発生に関しては、我らは何も関知しえないが、自分たちを含めて厳然と目の前に存在するわけだ。不毛の土地は、誰の封土でもなく誰の守護も存在しないが、その分自由だ。それはきっと、この土地が『そうあれ』と望んだ者がいるのだろう――そう思うことにしている。そして遅々とした歩みであるが、確かに前に進んでいくこの界を、そこに生まれた我らによく似た生き物に託して、『人界』と呼んでいる」
春螺は人間の青年に微笑みかけて、そう告げた。
「我らを生み出す基となったものと、不毛の界を生み出したもの。それを便宜上我々は、『始まりの御方』と呼んでいる。神仙界と人界の全ての始まりを作り、そしてどこへともなく消えた方」
緋凌は長いこと、黙っていた。今まで人が誰一人聞いたことのない物語を耳にし、己の中で咀嚼し、やがて口にしたのは。
「春螺も神仙の一人であるのだから、当然自分の封土があるんだろう?」
これを問うた時の緋凌の心境を、心情を、春螺は後に思い返すことになる。
もしかしたらこの時緋凌は、たまらなかったのではないかと。
「まだ緑生い茂る楽園にはほど遠いが――認めたくはないが、私はまだ若いんだ。父上たちのように、練れてはいないのだろう。影響が――動揺が、逐一出るんだ」
「……そうか」
緋凌は少しばかりやるせない顔をして、火を見つめた。青い瞳に赤い炎が映り、揺れた。
「今になって思えばな、緋凌が己の人生を――己の最期というものを決めてしまったのは、この時だったのかもしれない」
「それは……」
「私には私の責務があるということを知り、それに対して己が何もできないと、あの瞬間奴は思ってしまったんだろうな……」