天を渡る風 (18)

「手合わせを願う」
 緋凌の死から一週間、弔いも終わり、村人の訪れもまばらになった頃。真剣を携えて突然やってきて言った李青の言葉に、偕良は己が耳を疑った。
「お前は、何を言っているんだ、こんな時に!」
「今でなければ何も意味がない」
「自分がどれほど無神経なことを言っているのか、お前は判っているのか!」
「判っている。けれども、私が偕良と手合わせするのも、何かを頼むのも、これが最後だから」
 李青は真剣だった。一歩も引かず、追いつめられたような眼差しで自分を見据える李青に、偕良は苛立ちを押さえられぬまま、それでも頷く。
「虫の居所が悪いからな、手加減できなくて怪我しても責任もたんぞ」
「そんなの、当たり前だ!」
 偕良は自分の剣を抜くと、青眼に構えた。李青も、小振りな剣を抜き、鞘を放る。
 睨み合うこと数秒。先に動いたのは李青だった。軽やかな身のこなしで、懐深くまで飛び込んでくる。
 李青の渾身の切り込みを、偕良は右手一本で受け止めた。その瞬間、李青の顔に動揺が走った。
 偕良が左手を添え、力を込めて切り結ぶ刃を押し返すと、李青はたやすく押し戻されて態勢を崩した。
 きん、と鋭い音が響いて、剣が飛ぶ。返す刀で振るった偕良の一撃は、李青の剣を彼方に弾き飛ばした。
「勝負あったな」
 衝撃に痺れた手を押さえ、地面に座り込んだ李青を見下ろし、偕良は告げた。
「これで満足か?」
 苛立たしげに問いかけた偕良に、李青は答えない。気まずい沈黙の後、微かに聞こえてきた声に、偕良の肝が冷えた。
 それもかみ殺そうとしてもかみ殺しきれない、嗚咽だった。
「李青……おい」
「やっぱり、今まで手加減してたんだ……」
 俯いた顔から、地面にぽたぽたと涙が落ちる。
「やっぱり、勝てないんだ……」
「おい、李青、泣くなよ! 何でだよ!」
 慌てて隣に座り込み、肩に手を当てると、李青は顔を上げた。
 銀の瞳を持つ相貌からは、望みが断たれた者の絶望があった。
 気丈で勝気で、弱音すら吐いたことのない李青の涙に、偕良は動揺する。
「結局何なんだよ。いきなり勝負しろと言ってみたり、負けたからって泣いたり、お前らしくもない」
「最後だから。これが最後だと、判ってたから」
 最後、という言葉の意味することは、偕良にも判った。
 もうすべて終わる――そう李青に告げたのは、他ならぬ自分。
「私はずっと、偕良に勝ちたかった。何か一つでいい、何でもいいから、偕良に勝ちたかった。春螺様が剣才があるからって、鍛えてくださったから……ずっと偕良に勝ててたから、剣を選んだけれども……やっぱり勝ててなかったんだ。やっぱり手加減してくれてたんだ」
 しゃくりあげながら答える李青に、偕良は訳が判らず問いかけるしかない。
「何で遮二無二俺に勝とうとするんだよ。それにどんな意味があるって言うんだ」
「……私は、緋凌様みたいな思いはしたくなかった。緋凌様が感じたような、惨めな思いはしたくなかった」
「……なに」
 偕良の声に怒気がこもるのを感じても、李青はたじろがない。涙がたまった目で真っ直ぐ偕良を見て、押し隠してきた本心を告げる。
「私には、緋凌様がどんな思いをされてきたのか、どんなに苦しんでこられたのか、よく判る! 神に恋することが、どれほどの苦しいことなのか。どれほど挫け、萎えそうになる心を叱咤して、胸を張りつづけていなければならないことなのか」
「り……せい、お前……」
「この人が欲しい、愛してほしい、力になりたい、慰めになりたい。どんなに願っても、どんなに努力をしても、人でしかない自分はあまりにも卑小で、何もできない。何の力にもなれず、何の価値もない。並び立とうと願っても、決してかなわない、届かない。そんな人間に残されたできることと言ったら、胸を張ることくらいよ。どんなに拠り所がなかろうと、虚勢であっても、ただひたすら傲岸不遜なまでに誇り高くあること、そして相手と真正面に向かい合うこと。それ以外に、何ができるって言うの!」
 俺から意地を取ったら、一体何が残る――そう緋凌は、偕良に言った。その言葉の意味が、今やっと、偕良は判った気がした。
「それがどんなに畏ろしいことか、胆力がいることか、偕良には判らないでしょう! これほどまでに強く美しく気高い存在に、この卑小な身で対等に口を利き、あまつさえ触れたいというこの願いが、どれほどの思い上がりかなんて、判ってるわよ。それでも、はいつくばって恩情を、許しを請うことだけは真っ平御免よ!下等な人間の端くれと目に留めてもらえないくらいならば、無礼者と罵られ、怒りの炎で焼かれて死んだ方が、どれくらい幸せかしれない!」
 偕良は呆然と、ただ呆然と李青の言葉を聞く。告げられた言葉の一つ一つが冷たい氷のようで、心にねじ込まれて、今まで味わったことのない感情を呼び覚ます。
 寒い。心の中が、冬の冷気にさらされたように、寒くてこごえそうに思える。
「だから、何でもいい、あなたに勝ちたかった。掛け値なしに、あなたに誇るものがほしかった。何か一つでいい、拠り所がなければ、私は壊れてしまう。悔しいけど、私は緋凌様ほど、強くない……」
 かたかたと体が震えてくるのを偕良は感じた。李青が偕良に突きつけた現実は、あまりにも絶望に満ちていて偕良の喉を絞める。
「だけど、それももうおしまい。判ってしまったもの……私では、あなたの痛みを分かち合うには、あまりにも力が足りない。私じゃ、あなたの力になれない。だから、どうか……あなたが――いいえ、あなた様が、御身にふさわしい世界と人に囲まれて暮らして下さることが――」
 言葉は最後まで継げなかった。ぴしり、という鋭い音が、夏の空気を裂いた。
 軽くではあったが、偕良が李青の頬を叩いたのだ。
「勝手なことを言うな!」
 有らん限りの声で、偕良は叫んでいた。彼は心底から、怒り狂っていた。
「親父も、お前も、俺やお袋のことを買いかぶりすぎだ! 神仙であることがなんだ。力があることがどうした。それで何ができる! そんな言葉を突きつけられた俺たちが、どんな思いをするのか判ってんのか!」
 幼い頃、祖父である申王に言われた言葉の意味が、今はっきりと判った。
 我々とて、独りでは生きられない――。
 どうして母が父を選び、責務を放棄してまで共に暮らしたのか。なぜ母が父に恋をしたのか、その気持ちが今はよく判る。
 寂しかったのだ。
 全ての者に見上げられ、誉めそやされても、孤独は埋まりはしない。
 一緒に泣きたかった。一緒に笑いたかった。そばにいて、喜びと悲しみを分かちたかった。それは神仙よと見上げられる者たちとの間では、決して叶わぬことだから。
 何もしてくれなくてもいい。ただそばにいてほしかった。ただそれだけ、ただそれだけだったのに。
「あのくそ親父は、自分がいるだけでどれくらいお袋が救われてたのか、そんなことも判らなかったのか。何もできないからとつまんねえ意地張るよりも、たった一つとても大事な、親父にしかできないことがあっただろうが!」
 寂しい。自分がどれほど寂しい存在なのかを、偕良は実感した。
 ただこの広い天地でただ独り、下賤の者よと蔑まれるか、神の子よと崇め奉られるか。
 誰一人、心に触れてくれる者もなく、ただ遠巻きに見られ、誰一人近寄ってきてはくれない。
 共に育って、ずっと対等に張り合ってきた李青さえ、ついには萎えて心に壁を作る。
 あなた様――そんな他人行儀な呼び名で、自分を遠ざける。
 許せなかった。
 耐えられない。彼女が自分に見下ろされることに耐えられなかったように、自分も彼女を見下ろすことなど、到底耐えられない。
「許さない……」
 手を伸ばし、偕良は強引に李青を抱き寄せた。抱きしめられ、戸惑う李青は、不意に髪の中に冷たいものが落ちてくるのを感じて顔を上げた。
 偕良は声も上げず、嗚咽ももらさず、けれども黒い瞳からただ涙を流し、泣いていたのだ。
「お袋の気持ちも省みないで勝手に死んでいった親父も、俺の気持ちも省みないで勝手に思い込んで、勝手に諦めていくお前も、決して許さない」
「偕良……」
「だから李青……お前は、ずっと俺のそばにいろ……」
 偕良の震える声に、李青は答えなかった。だが言葉の代わりに手を偕良の背中に回し、きつくきつく抱きしめた。
 抱きしめたその手を、放さなかった。

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