それでも朝日は昇る 10章3節

 五月二十日、開かれた軍議は、いつもと違う様相を呈していた。二日前、バルカロール侯爵が気づいたその異変は、二日後には全貴族の知るところとなっていた。
「陛下の崩御が、一兵卒単位にまで漏れ広がっている。これはどういうことだ」
「一体誰が、絶対秘匿の事実を外部にもらしたというのだ」
「こういう風に、大声で話してるから漏れたんだろうよ。違うか?」
 いきり立って怒鳴り合う男たちにぶつけられた、呆れを含んだ声。一同の視線は、座の端に悠然と腰を下ろしている一人の男に向かう。
 ジェルカノディール公爵フィデリオ――アルバ最大の所領を持つ大貴族は、居並ぶ男たちの怒気を軽くいなした。
「犯人探して糾弾したところで、今さら漏れてしまったものをなかったことにはできないだろう。今問題とすべきは、多くの兵たちがそれを知ってしまった今、どうするのかではないのか? 貴卿ら」
「ジェルカノディール公――」
「反目し合うラディアンス派とフレンシャム派が共闘を選択したと聞いた時は、なかなか面白い手を打ったもんだと思っていたが、城を落とす前からこうでは話にならん。上が争えば、どんなに押し隠そうが下も争い出す。このイプシラントに集った十万の兵力、それがすでに真っ二つになってるぞ。こんな状態で、手練の国軍相手に勝てると思っているのならば、おめでたいことこの上ない」
「いかな公でも、言っていいことと悪いことがあろう」
「人心がこの有様では、戦争などできん。そのことに、貴卿らはなぜ気づかん」
 静かな声で、ジェルカノディール公爵は告げると、止めるのも聞かずに議場である天幕から出ていってしまう。その後を追ったバルカロール侯爵は、彼がひどく釈然としない顔をしているのに疑問を感じた。
「公爵、何を考えている?」
「貴卿は、陛下の崩御と共に兵たちの間に流れている、もう一つの噂のことを知っているか?」
 瞬間、侯爵の心臓が跳ねた。それは彼を、驚愕させたあの噂に他なるまい。
「そう、真の王――あの噂、どう思う?」
「どう、とは……」
「兵たちの間に、厭戦の風潮が流れている――当然だな。給金を支払われ、契約を交わした傭兵ならばともかく、ここに集った十万の兵の大半は、税の形になかば強制的に引きずられてきた農民たちだ。この後勃発するであろう内乱に怯え、救いを求める声が上がっても詮ない。……だが、あの噂は、そんな願望が作った幻だと考えるには、あまりにも符丁が合いすぎる」
 声音をひそめ、公爵は続けた。
「レオニダス先王陛下の遺言――ウェンロック陛下の崩御のことならともかく、あれが一兵卒に流れるとは考えにくい。あれは、宮廷の秘中の秘だ。あれを表沙汰にして、得する者などこの陣営には一人としていない。だとすればだ、侯爵」
 にやり、と公爵は不敵に笑った。事態を面白がるような、そんな笑み。
「本当に、本物がいるのかもしれないな。レヴェルを持った、真の王とやらが」
 だが、それは――バルカロール侯爵は言葉を呑んだ。
 脳裏によぎるのは、あの日のこと。傷ついた面差しで、怒りをあらわに叫んだ彼の姿。
 カティス・ロクサーヌ――彼が、レオニダス先王が用意した『真の王』であることを、侯爵は確信した。彼の元にレヴェルがあるであろうことも、また。
 だが、この噂の元になったのは――この事態を引き起こしたのは、本当に彼だろうか。あんなにも激しく、己の出生と父王、そしてブロードランズ家を憎んでいる彼が。
 そんな彼が現れるのだろうか。彼が立ち、王子として名乗りを上げるのだろうか。
 それは、バルカロール侯爵には考えにくい仮定だ。そして、本人が現れる以前に、噂が先行することもまた解せない。
 そして――。
「もし、そんな人物が現れたら、公爵はどうするつもりだ」
「どうするだろうね。本人を見るまでは想像もつかないが――面白いことになりそうな気はするな。ラディアンスにもフレンシャムにも、正直飽き飽きした。奴らが争うのに、今後何十年もつきあい続けるのも」
 もはや一国と呼ぶにふさわしいほどの領地を持つ者としての余裕をたたえ、ジェルカノディール公爵は呟く。
「そやつがこの完全に膠着した状況に、いくらかでも風を吹かせてくれるというのならば、願ったり叶ったりだ」
 ところで、と声をかけた公爵は、表情を改めて侯爵に向き直す。
「一つ、面白い噂を聞いた。今この陣営のどこかに、おかしな人物がいるそうだ」
「おかしなというと、どのように」
「奇跡を行う聖者がいる――そんな噂が、兵の間で広がりはじめている」
 その噂は、多くの間諜を放っているバルカロール侯爵でも初耳だった。
「ひどい傷を負った者や、重い病の者もたちどころに治してみせたり、金もなく飢えた者に施しをしたり、力尽きた者を祈りを捧げて葬って歩いているらしい」
「どこかの教会に属する修道士か?」
「可能性は高い。医術を施すには、それだけの学才がいるからな。並の者ではなかろう。だが問題なのは、その信奉者の広まっていく速度だ。あちこちの陣営で、急速に勢力を拡大している――ということは、救済した人間の数が半端じゃないということだ。それは、よほどの資本が後ろにいると考えなければならん。人を救うのには、金がいる」
 まさか――その瞬間、侯爵の脳裏に閃いたのは、ある予感。
 その人物の後ろ楯は、貴族ではあり得ない――そんなことをして得する者は、貴族の中には一人もいない。だとすれば、それだけの財力を持ち合わせるものといえば。
 都市。
「それで、その人物を捕まえようと躍起になっているんだが、こちらの招請に応じない。無理矢理連れてこようにも、そんなことをしたら信奉者たちに襲われそうで実行できずにいるというのが現状だ」
「……その者の名は?」
「正確な名は、まだ掴めていない。だが信奉者たちは、こう呼んでいる――黒い賢者、と」
 かくして、その名が初めて歴史の表舞台に上がる。
「黒い賢者、カイルワーンと」


 それから十日が過ぎ、風評はもはや全軍に伝播する。
 五月三十日、イプシラントにもぐりこんでいた間諜の報告を、アイラシェールは諦観を持って受け止める。
「来られたのね、あの方が」
「……あのカイルの名の由来になった人?」
 ベリンダの問いかけに、アイラシェールは憧憬を持って頷く。
「黒い翼の天使――アルバの黒い賢者、カイルワーン宰相閣下が」
 あと二日――その日のことを思い、アイラシェールは恐れと期待をもって指折り数える。
 長年、伝説の人として畏れ、敬い、憧れ続けた人が、立ち現れる。
 その人に殺されるのだと判っていも――己を殺すために、その人が立ち上がるのだと知っていても、心のどこかが高揚する。
 今自分の目の前で、アルバ史で最も歴史的な一瞬の幕が開く。
 夜半過ぎ、赤の塔の屋上に登れば、その明かりは微かに見ることができる。
 十万の大軍が陣を構える、遠いイプシラントの野に焚かれた幾万の灯火が。
 遠い火に手を差し伸べ、アイラシェールは呼ばわった。
「陛下……カティス初代王陛下、おいでください。あそこに集う十万の民が、貴方をお待ちしています。アルバ国一千万の民が、貴方のもたらす救いを待っています」
 貴方にしか救えない――もう、この国は。
「待て。その時は必ず来る」
 赤い目が見守る地で、威厳を持って告げられた言葉。
「必ず、救い主は現れる」
 背に見えぬ翼をまとわせた者は、夜風に黒髪をなびかせ、天を仰ぐ。
 突き上げていくうねり。満ちていく人の声。それを握りしめ、青年は声なき声を上げる。
 さあ、来い。舞台は全て、整った――。

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