それでも朝日は昇る 10章10節

 ざく、ざくと鍬が地を食む音が響く。およそ戦場とは思えぬのどかな光景に、カティスは隣に立ってこの光景を満足そうに眺めているカイルワーンに問いかけた。
「本当にいいのか? こんなことしてて」
「せっかく農民が鍬持ってきてるんだ。耕させない手はないよ」
 陣営の後方、広がる原野には、万単位の農民が散らばり、手にした鋤や鍬で地面を起こしている。夏に向かう太陽を浴びて働く人の姿は、あまりにも健全で、だからこそ著しい違和感を感じずにはいられない。
 事の起こりは、六月三日。二人がほぼ全軍を掌握し、開かれた軍議の席で、カイルワーンが切り出した話。
「この軍勢が、史上稀に見る烏合の衆であることは、貴公らが一番承知のことと思う。総勢十万というが、そのうち僕の見立ててでは、五万は武器も持たないただの農民――非戦闘員であるはずだ」
「閣下、ですがそれは……」
「国軍の化け物じみた強さに、恐れをなしたのはよく判るさ。あれに対抗するには、がむしゃらにでも兵を集めずにはいられなかった心情もね。勢力争いの問題もあるし、まず頭数が必要だったという事情も――でも、今は足手まといだ。鋤や鍬だけでも持ってこれた者ならまだしも、得物の一つも持たない農民を前線に出したところで、運用の邪魔以外の何物でもない」
 反論できず、粛然とする諸侯に、カイルワーンは淡々と命じた。
「全軍に、再編成を命じる。各自がそれぞれ自軍の将官を集め、部隊構成を報告させろ。その上で、何の武器も所有していない農民は、全て部隊から分離。それが完了したら、全員が僕のところに自軍の構成の詳細を報告してくれ」
「承りましたが、その上でお尋ねしたい」
「なんだ? ドランブル侯爵」
「これは五万の兵で国軍を打ち破れるという、勝算あっての措置ですね」
 民衆への人気取りやご機嫌伺いではないのか、と暗に問いかけるドランブル侯爵に、カイルワーンは不敵に笑ってみせた。この人物は、臆することなく意外に核心を突いてくるな、と内心で呟きながら。
「当然だ」
 かくして伝説で言うところの『革命軍の再編成』が行われることとなる。
 数日後、カティスの陣営の中に設けられている自分の天幕の中で、諸侯から出された報告書を並べていたカイルワーンは、同じくそれに目を通していたカティスに告げた。
「うん、これでようやく軍勢の形が見えてきた。僕の記憶と、ほぼ整合する」
「この報告が正しいという保証は? ――見栄張ってるかもしれねえぞ」
「それを君に確かめてきてほしい。数だけでなく、現実の実力としてどうなのか――それは、現役の傭兵であった君の目が一番確かだろう」
「判った」
「ついでに顔を売ってこい」
「……あいよ」
 渋々答えた後、カティスは問いかける。
「それで、本陣から分離して宿営させている農民たちはどうする? 戦場に出る必要はないと含められても、自分たちはそれではどうなるのかと動揺はしてるようだぞ」
「ああ。彼らにもしてもらいたいことがあってね。だからまとまってもらった」
 その結果が、この情景となる。
「いや、さすがにこれだけの人数がいると、開墾もはかどるね」
 にこにこ笑うカイルワーンに、カティスは呆れたように呟いた。
「そりゃあ確かに、ここまで本陣から離れれば、戦闘に巻き込むことはないだろうが……」
 カイルワーンは今回の陣形の組み直しで、自陣を少し南に進めている。そして分離した農民たちの宿営を北に下げ、その周辺の開墾を命じている。国軍と衝突するのは、今の位置よりさらに南のミモレ川を挟んだ位置でのことだ。万に一つも巻き込むことはないだろうが、だが。
 釈然としないのはカティスばかりではあるまいが、カイルワーンは一向に介することはない。
「自分たちがお荷物になっている――何の役にも立っていない。そういう思いを抱くことがどれぐらい辛いか、君にはよく判っていると思うけど」
 カイルワーンの言葉に、カティスはそれ以上反論しなかった。事実、目の前で畑仕事に精を出している人たちに、不満があるようには見えない。
 この国の窮状と、動乱の中で、自分たちにも果たすべき役割がある――それは心の支えになり、そしてその結果、この広大な地は畑になる。
「今の僕たちは、背に腹はかえられないよ。今年の気候は去年や一昨年に比べれば安定するけれども、この政情だ。農村に人手は足りないだろうし、種籾だって乏しいだろう。今年の収穫だって、満足のいくものになりはしない。だが今ここで、これだけの面積にジャガイモを作付けできれば、どうなる?」
「……そりゃあもう、大収穫だろうなあ。食い応えがありそうだ」
「この面積から上がる収量なら、どれほどの数の人間を飢えから遠ざけられる。レーゲンスベルグでやったことの比じゃないぞ。これだけで、今年の冬は去年よりかなり楽になるはずだ」
 戦いに勝つだけでは、問題は何も解決しない。アイラシェールが立ち向かい、解決できなかった問題は、そのまま自分たちも直面しなければならない。それを理解し、今から手を打ち始めているカイルワーンの姿勢は、間違ってはいない。
 だからこそ、そんな彼にカティスは言い出せない言葉があった。
 この戦いが終わった後も、お前は本当に俺のそばにいつづけてくれるのかと。
 城を落とし、アイラシェールと再会できたのならば、その後までも自分のために手を貸しつづけてくれるのかと。
 ジェルカノディール公爵やバルカロール侯爵は、カティスの即位後、カイルワーンが宰相になるものだとばかり思っている。だが、カイルワーンの戦後の進退が、未知数であることを、カティスだけはよく判っているのだ。
 いてほしい、と思う自分もいる。だが、その手で彼女を殺すくらいならば、何かも投げ捨てて、彼女と共に逃げてしまえと思う自分もまたいる。どちらも偽りのない本音だ。
 カイルワーンが、アイラシェールの死を抱えたまま、その後も生きていくことができるのか――その生を耐えていくことができるのか、カティスは本当は疑問なのだ。
「どうした? 暗い顔をして」
「この戦争が終わった後か――と思ってな」
 そんなカティスの内心を知らないカイルワーンが、訳が判らず目を瞬かせた時、それは起こった。
 馬の蹄の音が響いた。誰かからの伝令だろうかとそちらを向いた二人の表情が凍りつく。騎兵は、二人に近づきながらも、速度をゆるめようとしない。
「カイル!」
 咄嗟の反応は、カティスの方が早い。だがそれは今回ばかりは仇となった。カイルワーンを庇って転がったカティスの脇を、騎兵はかすめて通りすぎ――。
「……やられた」
 予想しなかった事態に、カティスは盛大な苦笑をもらす。
「……カティス、君は自分の立場を判ってるかい。臣下の僕じゃなくて、まず守らなければならないのは、自分の身だろう!」
 埃を払って、立ち上がったカイルワーンは、そんなカティスに説教する。
 今己が、どれほど暗殺の危険にさらされているのか、彼は理解していないというのか。
「反省してるから、これくらいにしてくれ。油断してた」
 最悪の事態は避けられた。だが今のカティスの行動と、事態は誉められた話ではない。
「狙いがレヴェルとは、判りやすいといえば判りやすいよなあ……」
 剣帯を引きちぎられ、レヴェルは騎兵に強奪された。おそらく今頃、誰かの元に運ばれているだろう――カティスのことを快く思わない、誰かの元に。
「どうする?」
「まあ、盗まれたのがレヴェルなら、大過はない。しばらく放っておくに如くはないさ。壊されることも、売り払われることもないだろう。これがスタリナだったなら、もはや出てこないこともありえるけど、レヴェルはそういうものではない」
「――レヴェルは、誇示しなければ意味がない。そういうことか?」
「そういうこと。あれをただの財宝と見なす者の仕業なら、当然スタリナを狙う。金銭的な価値から考えれば、スタリナとレヴェルでは桁がちがうからね。だが犯人はレヴェルを狙った――その意味は、一つだから。そのうち、必ず出てくる。取り返すのは、その時でいい。それに」
 にやり、とカイルワーンは不敵に笑う。
「もはやあの剣は、君のものだ。誰が何を主張したところで、現物を振りかざしたところで、それはもはや動きはしないよ。そのことを判っていない馬鹿なんて、僕たちの敵じゃない」
 だが、事態は二人が考えているほどゆっくりと動いてはいなかった――よい意味でも、悪い意味でも。
 二人が農地の視察を終えて、宿営に戻ろうとつないでいた馬のところまで戻ると、そこにバルカロール侯爵が凄まじい形相をして飛んできた。
「殿下、閣下、あれほど護衛なしで出かけられるなと私どもが言い続けてきた理由を、お判りいただけましたか?」
「……なに、もう伝わってるのか?」
「それどころではありませんよ――それはいいとして、お二人ともご無事で? お怪我はありませんか?」
「ああ、別に何もない。だが、どうして知ってる? 俺がレヴェルを盗られたのは、ついさっきだぞ」
 不審に問いかけるカティスに、苦虫をかみつぶしたような表情で、侯爵は答えた。
「なにしろこちらも一瞬のことだったので、私の手勢が事態を察して急行して、事態を収拾しても、あれが手一杯でした」
「……どういうことだ」
「宿営にお戻りください。そうすれば、全て判ります」
 バルカロール侯爵は、それ以上説明しようとはしなかった。そうして自陣に戻った二人を出迎えたのは、平伏した兵の集団。
 先頭の男が、布の上から持って――直に触ろうとしないで、恭しく差し出してきたもの。
「レヴェル……どうして、これを?」
 己の剣を受け取り、驚いて問いかけるカティスに、男は平伏して告げた。
「いくら我らが領主とはいえ、このような暴挙はアルバ国民として、許し難いことです。ですから、せめて我らの手で殿下にお返しせねばと、恥を忍んで参上いたしました」
 その一言で、カティスとカイルワーンは事態を悟った。
「……で、どうなった? 犯人は」
 強張った表情で問いかけたカティスに、バルカロール侯爵はこほん、と咳払いをして、答えた。
「その前に殿下に報告したいことが。フレンシャム侯子息のアラン卿が、不慮の事故で負傷したため、一部の家臣と共に自領に帰還されました」
「…………」
 やっちまった、と二人は内心で呻いた。唖然としている彼らを兵たちは不安げに見上げ……やがてそれに気づいたカイルワーンが、努めて冷静に話しかける。
「私刑は厳禁だと全軍に通達してあったはずだ。判るな?」
「……はい」
「だが、よくぞ王位の証を取り戻してくれた。その功をもって、今回の罪は相殺――それでいいか? カティス」
「……あ、ああ」
 一様に安堵が広がるのを見て取って、カイルワーンは作った極上の笑みで兵たちを送り出す。そしてようやく残された彼らは、人気のない天幕の中で言葉を交わす。
「で、実際として、アランは何をやって、どうなった」
 カティスの問いかけに、バルカロール侯爵は顔をしかめて答えた。
「レヴェルを手に入れた卿は、有頂天になって腰に差し、自分こそが王だと触れ歩いたところで襲われたようです――自軍の兵に」
 バルカロール侯爵が騒ぎを聞きつけてフレンシャム侯の宿営に辿り着いた時には、もはや事態は手遅れだった。アラン卿は半殺し状態で、興奮した兵卒は口々に叫んでいた。
 我らの殿下の御物に手を出し、王を僣称する不逞の輩を許すな――と。
「……あまり賢い人物ではないと思っていたけれど、ここまで馬鹿だとは思ってなかった。ここまで根本的に、事態をはき違えているなんて」
 頭痛を感じて、額を押さえるカイルワーンに、バルカロール侯爵が同意する。
 カティスは確かにレヴェルなしで、現在の地位を得ることはできなかった。だが、レヴェルが彼に現在の地位を与えたのではないことは、自明の理だ。
 いくら追いつめられていたとはいえ、そう思っていたのならば、アランという男は事態の本質を、根本的に勘違いしている。
「いや、それにしても、殺される前に止めてくれて助かった。これで仮にも領主を殺害してしまっていたら、とても庇いきれなかった」
 だが、それにしても――とカイルワーンは、ぽつり、ともらす。
「怖いな」
 それは居合わせた者の総意。
「確かにアラン卿がしたことは、カティスに心酔する民の怒りを買って当然のことだが、だからといって自領の民にまで報復されるなんて」
「それだけ、殿下に対する期待が大きいのだということだと、身に染みてください」
 侯爵の言葉に、カティスは顔をしかめる。
「殿下が背負われた救済とは、それほどのものなのだということを――御身がこれほどのものを背負っておられるのだということを、どうぞご自覚ください」
「……肝に銘じておくよ」
 苦々しくもらすカティスに、カイルワーンも切なげに目を細めて――やがて表情を変えると、言った。
 冷徹な、政治家の顔をして。
「残酷な物言いをすれば――君たちは不快に思うかもしれないが、今回の一件は儲けたかもしれないな。これで僕たちは、全軍を完全に掌握できる」
「フレンシャム侯は消えました。……いずれ牙を剥いてくることになりましょうが。そして残ったラディアンス伯も、この事態を知れば動けなくなるでしょう。少なくとも今は」
 ぱしん、と拳を己の手のひらに打ちつけて、カイルワーンは己に勢いをつける。
「さあ、もう時間はない。全速力で、布陣し直すぞ。今日が六月六日――あと四日だ」
 そして、あと七日。それで全ての答えは出る。
 彼の、人生の意味の。

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