それでも朝日は昇る 11章17節

 現れた人影を見た瞬間、アイラシェールは己の目を疑った。
 扉の前、立ち尽くしている人の姿は、あまりにも彼女の愛しい人に似かよっていた。
 別れた時十九歳だった彼が、二年の歳月を加え、二十一歳になっていたら、多分こうなっているのではないかと──二年分の成長と成熟を加えれば、こうなるであろうという姿。
 他人の空似にしては、あまりにも似すぎている。
 まさか、という思いが胸をよぎった。
 いるはずがない。彼であるはずがない。それなのに、それなのに。
 これは、夢だろうか──死の恐怖に錯乱した、自分が見た幻?
「アイラ」
 その人は、震える声で彼女を呼んだ。扉を閉め、ゆっくりとした足取りで、一歩、二歩。しっかりとした足取りで、歩み寄ってくる。
 黒い髪、黒い瞳。焦がれるなどという言葉では言い表せないほど思った、その姿。
「アイラ」
 その人は、もう一度名を呼んだ。伺い、問い、許しを請うような頼りない声で。
 手を伸ばせば届くほどの距離──もう疑えない。間違いなんてない。
「カイル……? 本当にカイルなの? 本当に、本当なの?」
 カイルワーンは、アイラシェールの問いかけに、ただ頷いた。
「どうしてここに……どうしてこの時代に!」
「君を、追ってきた」
 アイラシェールにとって、最も意外な答えをカイルワーンは返した。
「君が消えた後、僕もまた時の鏡に請い願って、この時代に来た。それから二年半、僕は君を探し続けてきた」
 あまりにも沢山のことがありすぎた、この永い月日。カイルワーンは詰まる息を吐き、万感の思いを伝えた。
 それはただの一言でしか、言い表せない。
「会いたかった……」
 カイルワーンは、目の前にいるアイラシェールを一身に見つめた。
 幾度この瞬間を夢に見ただろう。望み、願い、そして恐れ続けただろう。だがこの瞬間、今目の前にいる彼女は、紛れもなく夢でも幻でもない。
 疲れと苦悩の跡は、細くなった体つきからたやすく見て取れた。だがそれでも重ねた二年半の歳月は、彼女をより大人の女性に変えた。
 綺麗になった。誰に対する嫉妬も今はなく、カイルワーンはただ素直にそれを認める。
 カイルワーンは、泣きだしそうな笑顔を見せた。自分に一身に向けられている優しさに満ちた目が、微笑みが、アイラシェールの中の堰を切る。
 倒れこむように──崩れ落ちるように飛び込んだ胸。アイラシェールは手を伸ばしてカイルワーンの首をかき抱き、カイルワーンはその体を抱き留めた。
 この奇跡が夢ではないと二人に伝えるのは、確かに伝わってくる温もり。
 こぼれ落ち、降りかかる涙の熱さ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、カイル」
「どうして君が謝る?」
「あんなに私、ひどいことを言ったのに。あなたが差し出してくれた手を、無下に振り払った私なのに。見限られて当然のこと、したのに……それなのに」
 それなのに。
「私、あなたに国も、故郷も……将来さえも捨てさせてしまったのね。なんて申し訳ないことを、申し訳ないことを……だけど」
「だけど?」
「そのことが嬉しいって言ったら……そこまでして、こんなところまで来てくれたことが、本当は嬉しいって言ったら、カイル、怒るかな……?」
 自分から遠く離れた時の中で、彼が幸せになってくれているのならば、それでいいと思った。平穏な人生を歩んでくれているのなら、それでいいと。その思いも、決して嘘ではない。
 だが、愛しい人が、自分のために全てを捨ててきてくれた。何もかもを捨て、こんなところまで自分を追ってきてくれた。
 そのことが、どうして嬉しくないはずがある?
 思いもかけない言葉に、カイルワーンは目を見張った。抱きしめたその腕が、体が震えた。
 そんな彼を強く強く抱きしめて、アイラシェールはただ一言で、胸の内を伝える。
「会いたかった……私もあなたに会いたかった」
 カイルワーンは答えなかった。思いは言葉にならなかった。だがさらに力のこもった腕が、震える体が、彼の気持ちを痛いほどに伝える。
「私、あれ以上、あなたを巻き込みたくなかった。天才の息子として……いいえ、天才として、輝かしい未来が約束されていなければならなかったあなたが、私のために幽閉されて、将来も、自由も、何もかもなくして罪人として国を追われるのが……何の罪もないのに、国民たちに憎まれるのがたまらなかった! だから私、あの時、あなたの手を振り払って……だけど、過去に来て、運命を知って、やっと判ったの。その思いは決して嘘じゃない。でも、本心でもなかった。全部、全部、強がりで、本当に思っていたことは──私の願いは、たった一つしかなかったってこと」
 それこそが、伝えたかったこと──もう一度彼に出会うことが叶うのならば、伝えたいと願っていたこと。
 それをアイラシェールは、全身全霊、伝える。
「本当は……ずっと、いっしょに、いたかったの……」
 もはや過去形でしか語れない願い。けれどもそれをアイラシェールは、あふれる涙とともにそれを伝え、そしてカイルワーンはそれを懸命に受け止めた。
 アイラシェールは自分のことを、どう思っていたのか。それはいつだって、彼にとっての最大の難問だった。塔で暮らしていた時にも、過去に来てからも、カザンリクでカティスに問いただされた時にも。
 問いかけるのが恐かった。それまでの関係を壊すのが、否定されるのが恐かった。だから逃げ続けて、逃げるために死さえ選ぼうとした。
 懸命の力を振り絞って、多くの犠牲を払ってまでここまで来たのは、つまりはそれを知るためだった。たとえ否定されてもいい。答えを出そう。答えを出した上で、それでも変わらない自分の心を伝えよう。そう思っての、カザンリクからのこの長い道程。
 アイラシェール、君はなんて人なんだろう。内心で、カイルワーンはそう独りごちた。初めて出会ったあの日、何も言わずにたやすく自分を救ってくれたように、まだ答えを恐れ続ける臆病な自分に、先回りしてこんなにもたやすく欲しい言葉を投げてくれる。
 もう何もいらない。そう思った。このたった一言だけでもういい、他には何も望まない。そう思えてしまうほどの、それは奇跡。
 だからカイルワーンはそれに報いるように、口を開く。
 今まで鎧で隠して、見せないようにしてきた心の裂け目をさらす。
「僕にはなくすものなんて、初めから何もなかったよ」
 ぽつり、とこぼれ落ちる苦い告白。
「君にはそうは見えなかったのかもしれないけれども、僕には未来なんて、将来なんて、はなからありはしなかった。もし僕に国が、時間が、そして居場所があるとしたら、それはみんな君が僕に与えてくれたものだった」
「カイル……?」
「だって、母に沈められたあの水の底から、僕を掬い上げてくれたのは、君だったんだから。母親さえ疎んで、殺そうとした醜い子供を、抱きしめ、許してくれたのは、他ならない君だったんだから。僕は君がいなければ、今頃生きてなんかいない。僕を引きずり戻そうとした声に負けて、とうにあの水底に沈んでいただろう」
 腕の中で、アイラシェールの体が強張るのを感じた。呆然と、そして恐る恐る自分の顔を見上げる彼女を見て取り、カイルワーンはそっと腕を解くと、胸甲を外した。上着の袷をはだけると、その傷はあらわになる。
「これ、この傷……」
「これがある意味、母が僕に残してくれた唯一のものだ。生まれてきたという罪を僕に突きつけ続ける証として」
 明らかに自嘲が伺える寂しい笑みを、カイルワーンはアイラシェールに向けた。
「消えてなくなりたいと思っていた。誰かの負担にしかならない、誰かを不幸にするしかない一生ならば、とっとと終えてしまった方がどれだけ人のために──両親のためになるかと思っていた。そんな僕を、幼い君は見るなり抱きしめてくれた。駆け寄って、抱きしめて、そして笑ってくれた。……幸せ、だった」
 痛ましそうに顔を歪めて自分を見上げているアイラシェールに、カイルワーンは今度こそ慈愛と感謝を込めて、屈託なく笑いかける。
「あの日僕は、君のために生きていこうと誓った。こんな僕でも君のために何か一つでもできることがあるのならば、そのためならば何でもしようと誓った。……それが君のためじゃない、僕のためだったことは──何のことはない、依存だったことは、僕にだって判っている。それでも僕は君に伝えたかった。君がもし、己の生を、己の存在を罪だと思っているのならば──何の意味も、価値もないものだと思っているのならば、それは違うと。ここに一人、君が紛れもなくその命を、そして心を救った男がいるんだ。そのことは、君を救わないかもしれない。君を何一つ、慰めないかもしれない。けれども僕は、君にそのことを伝えたかったんだ」
 アイラシェールは答えなかった。その代わり、そっと手を伸ばして、胸元の傷跡に触れた。
 今も無残に残る、火傷の跡。彼の痛みと苦しみの証。
「……私は本当に、あなたの救いになれていた?」
 震える声が、許しと救いを求めて投げられる。
「あなたはそんなにも傷ついていたのに、私は何も知らなくて、気づこうともしないで……我が儘で、無神経で、自分勝手で……」
「それが、僕の幸せだったんだ」
 それが、カイルワーンの望んだ幸せの形。愛している、という言葉の意味。
 自分がカイルワーンにそれほどのことができていたなど、ちっとも信じられなかった。けれども目の前で彼は穏やかに笑い、自分を見下ろしている。
 だから、アイラシェールも笑った。そして再び彼の肩に顔をうずめ、身を預ける。
 これでいいのだ、とそう思えた。
 それから二人でどれほどそうしていただろう。カイルワーンはやがて胸の袷を直すと、懐から手巾を取り出して渡した。
「顔を拭いて。君に会わせたい人がいる」
 突然の言葉に、アイラシェールは驚く。
「君の運命は知っている。そして僕にも君と同じように運命が存在した。そういうことさ」
 言い残すと、カイルワーンは扉に向かって声を上げた。
「いるんだろう? 判ってるんだよ。入ってきな」
 その呼ばわりに、アイラシェールは驚く。こんな砕けた――ぞんざいな口調で話すカイルワーンを見たのは、初めてだった。
 だが扉は、ぴくりとも動かない。その様子に忌ま忌ましげな表情をすると、カイルワーンはつかつかと靴の音を鳴らして扉に歩み寄り、そして。
 一気に扉を開けた。
「呼んだら、さっさと入ってこいよ」
「……いや、感動の体面を邪魔しちゃ悪いかと」
「君がいなければ、話が始まらないんだよ」
 扉の前に立っていた長身の青年は、罰が悪そうにそう言う。唖然とするアイラシェールの下にその青年を連れてくると、カイルワーンは深呼吸をして、言った。
「紹介する。見て判ると思うけれども、彼女がアイラだ。アイラ、こいつがカティスだ」
 その瞬間、アイラシェールの呼吸は止まった。
 彼は今、何と言った?
「え……?」
「まだ判らないかな? そういうことだ」
 半分申し訳なさそうに、そして半分悪戯っぽく笑うカイルワーンと、カティスを見比べ、たっぷり五秒、アイラシェールは考え込む。
 英雄王と讃えられる人に対する、そのあまりにも砕けた――親密な口調、態度。
 その意味するところは。
 理解した瞬間、驚愕と納得が胸を満たした。長年の疑問が全て解けたその感慨は、喜びと呼ぶにふさわしかったが、やがてその意味するところを理解すれば、痛みの共感が押し寄せてくる。
「……そうだったんだ」
 そう呟くアイラシェールに、カイルワーンは罪悪感に満ちた表情を見せた。
「僕が賢者の名の下にしたことは――君にした仕打ちは、言い訳できることじゃない。軽蔑してくれても、見下げ果ててくれても構わない。僕はそれだけのことをした。でも、それ以外に僕はこの城の門を開けることができなかった……この方法でしか」
 その言葉に、アイラシェールは無言で首を横に振る。
 彼はいつ己の運命を知ったのだろうか。彼はそのことをどう思ったのか。察しようにも察するに余りあるその悲痛を思えば、胸がきりきりと痛んだ。
「そういうことだったんだ……辛かったでしょう、カイルも。そのせいなの? こんなに痩せて……とっても苦しい思いをしたんでしょう」
「周りがいつも支えてくれたから……こいつを含めて。だから何とかなった」
 こくん、と小さく頷くと、アイラシェールはカティスの方を向く。
 アイラシェールは王宮に登ったことがないから、カティスの姿を知らない。だが今目の前に立つ彼は、その口伝が伝えるままの姿をしている。
 衣服は埃にまみれ、裂傷を負った体のあちこちから血がにじんでいる。……おそらくはフィリスとの戦いで負ったのだろう。だが背筋を伸ばして立つ姿は、まさに伝説が伝える英雄そのままだ。
 恐れと共に、あんなにも会いたいと願った英雄たち。それは己と同じ運命を分け合っていた。そのことが嬉しい。
 とても、嬉しかった。
「カイル、私まだご挨拶をしていない。しても構わないかしら?」
「……いいよ」
 アイラシェールの示唆を、カイルワーンは的確に読み取った。戸惑うカティスにアイラシェールは裾を捌き、跪くと、貴婦人の礼を取って名乗りを上げた。
「ご尊顔を拝することが叶い、今至高の栄誉を得ましてございます。私の名は、アイラシェール・シャルロット・ロクサーヌ。アルバ王国ロクサーヌ朝十二代王クレメンタインと、その妻シェリー・アンとの間の三女、貴方様から数えまして九代目の直系の子孫にございます」
 それはカティスに驚愕を与えた。それは今の今まで、カイルワーンが隠し続けてきた最後の歴史の真実だった。
「俺の……子孫?」
「そう、君が今ここで作る王朝は、二百年、もったんだよ。そして僕たちの時代に市民の手で滅ぼされる――そういうことさ。アイラは君が王にならなければ生まれてこない。そういう運命だったんだ」
 アイラシェールに手を差し延べながら言うカイルワーンに、カティスは激して言う。
「どうして言わなかった! それならそうと――」
「言えば、君が苦しんだだろうが! 僕にそんなことを言わせるな!」
 カイルワーンの叫びは、カティスのそれ以上の言葉を封じた。何も言えずに詰まる彼を見て、アイラシェールはうっすらと笑みを浮かべた。
 離れていた二年半の月日。自分のそばにベリンダがいて、取り囲んでくれた人々と苦しいながらも楽しいことがあったように、カイルワーンの横にもカティスがいて、きっと他にも人がいて、様々な出来事があったのだろう。
 史実にも、伝説にも記されない、二人だけの物語が、きっと。
 聞いてみたかった。二人の間にどんな出来事があったのか。けれどもきっと、その時間はない――近づいてくる足音が、アイラシェールにも聞こえてくる。
「アイラ、君にも判っているね。僕たちには時間がない」
 そんなアイラシェールの内心を察したのか否か、カイルワーンはそう告げた。
「ここで僕たちは、選択をしなければならない」
「歴史の遂行か、それとも変革かを、ね」
「苦しい選択であることは判っている。でも、僕は君が、何を選んでくれても構わない。たとえ君が、世界を壊すことさえ望んでも」
「カイル……」
 その恐ろしい言葉を、極めて真摯に告げたカイルワーンに、アイラシェールは彼の本気を悟った。
「君の心が救われる道を選んでくれれば、それでいい。僕はその道に殉じよう」
 ちりん、と胸の奥で鈴の音が鳴る。
「君が、選んで」
 アイラシェールは、カティスを見た。カティスは遥か後に生まれる己の裔に、覚悟に満ちた表情で頷き返した。
 アイラシェールはしばしの間瞑目していた。だがやがて目を開けると、目の前の英雄たちに告げた。
 その胸の中の叫びを。魔女と罵られる者の覚悟を。
 それは破れゆく者たちの存在を懸けた、最後の矜持だ。
「カイル、カティス陛下、どうか聞いて。私、あなたたちがここに来たら――何も知らない、英雄たちが来たらこう言うつもりだった。人生の意味って何ですか、と。人生の価値とは何ですか、と、そう聞くつもりだった」
「アイラ……」
「人間の一生が全てあらかじめ決まっているのならば、何一つ選ぶこともできずに死んでいった者の命は、その意味は、価値はどうなるのですか? 選ぶこともできず、娼館に売られていき、春をひさぐだけで死んでいった娘の一生は、生まれながらに死んでいった子どもの一生は、何の罪もないのに伝染病にかかって、生きながら焼かれた村人の一生は、白子に生まれついたというだけで魔女の生まれ変わりと見なされ、殺されていった娘たちの一生は。そして破れ、悪行だけが残り、悪党と、国を乱した極悪人と罵られる者の一生は!」
 その叫びを、カイルワーンとカティスは真正面から受け止める。それは二人の心にも等しくある問い――嘆きだ。
 彼女は自分たちと、同じ運命の線の上にある。そのことを、はっきりと悟った。
「永らえた者の一生だけが、善行を積んだ者の一生だけが、そして歴史に輝かしい名を残した者の一生だけが、価値のあるものなのですか? 意味のあるものなのですか? そんなこと、私は決して認めない! 何を残せなかった者の命にも、罵られる者の一生にも、必ず意味はある。絶対価値がある! そう思えば、私はこの一生を否定することはできない。たとえどれほど苦しくても、無残な結末を迎えようとも、私は私の手で、私がここにいたことを、私が生きていたことを――私自身の一生を否定することはできない!」
 それでも、全てを否定することはできない。
 それだけは、どんなことがあっても、できない――。
「どんな結末を迎えても、どれほど悪名しか残せなくても、それでも私はここにいたの。私は、生きていたの。それを、なかったことになんて、できない……」
 カイルワーンは天を仰いだ。きっと天を睨んで、やがてアイラシェールに問いかけた。
「本当にそれで、いいんだね……」
「あのね、カイル。これは確かに信念だけど、それでも迷わなかったといえば嘘になるわ。でもあなたが今来てくれて、はっきりと判ったの。どうして今まで何千回、何万回と時間を繰り返して、一度も私たちが歴史を変えることができなかったのか。どうして私たちはこの選択を下したのか。その理由が、はっきりと判った」
 それはあなたが来てくれたから。
 望んだのは、私だ。
 それがたとえ、心さえ、望みさえ、天に操られているのだとしても。
 それでも、選んだのは、私だ。
 泣き笑いを浮かべ、アイラシェールは手を差し延べた。
「アイラ……?」
「私の最後の我が儘を聞いてくれる?」
「……何なりと」
「私、あなたにもう一度会いたい」
 差し延べられた手が、カイルワーンを誘う。その運命へ――彼らが選んだ、最期へ。
「たとえこの最期しか迎えられないのだとしても、たとえ十四年の短い間しかそばにいられないのだとしても、変えられない運命にどれほど苦しむのだとしても、それでも私、あなたにもう一度会いたい」
 アイラシェールの目から涙がすべり落ち、散った。カイルワーンはそこに立ち尽くした。
 体が、震えた。
「カイルワーン、あなたの全てを、私に下さい」
 アイラシェールは最期の望みをカイルワーンに伝えた。
 そしてその答えは、最初からカイルワーンの胸にある。ずっと――出会ったあの日から。
 だからカイルワーンは答える代わりに、窓辺に歩み寄った。そこには今朝アイラシェールが摘んできた、薔薇が活けてある。
 最初白い薔薇を手に取りかけてやめ、赤い薔薇を一本取ると、カイルワーンはそれをアイラシェールに差し出す。
 そして、告げた。
「僕は、どれほど時が過ぎようと、幾万回時が巻き戻ろうと、未来永劫君の騎士だ」
 カイルワーンは敢えて跪かなかった。真っ直ぐに同じ高さでアイラシェールを見つめ、そして請う。
 彼の全てを賭けて。
「僕の心を――僕の全てを、受け取ってもらえるだろうか」
 差し出された赤い薔薇を、アイラシェールを涙をこぼしながら、満面の笑みを浮かべて受け取る。
「喜んで」
 その言葉に、カイルワーンは顔を寄せた。唇が触れ合うだけの短い口づけ。ほんの刹那の邂逅、ほんの刹那の幸せ。それももうすぐ終わる。
 怒号が聞こえた。窓の外――兵士が中庭に押し寄せる。
 アイラシェールは、隠しから鍵を取り出した。鈍い金色の、真鍮の鍵。二百年を巻き戻して、カイルワーンは再びそれに出会った。
「カイルなら、これがどこの鍵か判るよね」
「……ああ」
「後のことは、お願い」
「必ずこれをクレメンタイン陛下へ。そして、全てを未来へ」
 手から手へ鍵は――道は渡され、そして時は来た。
「ごめん、ごめんね、カイル」
「アイラ、それは違う」
 首を振ったカイルワーンに、アイラシェールは小さく頷いた。そして、告げた。
「ありがとう」
 その言葉が、別れであることを、カティスは悟った。そしてそんな彼に、アイラシェールは向かってもう一度礼を取った。
「カティス陛下、長らく私がお預かりしておりました国権と玉座をお返しいたします。これ以外の道が私にはなかったこと――運命に逆らいえなかったことを、他ならぬ貴方様がご存知であるということは、私にとってこの上のない喜びです。この思いがどれほど傲慢なことかは判っております。――運命を知るということが、どれほど惨いことなのか、私も身をもって知っておりますから。けれども、私を滅ぼす貴方たちが、私と同じ運命の上で、同じ苦しみを分け合っていただけるということは、嬉しい……この上なく、嬉しい」
 カティスは、身を翻し窓辺に寄った彼女が何をしようとしているのかを悟った。それは決して彼には受け入れられない結末。だから止めようと駆け寄り――そして。
 両手を広げて立ちはだかったカイルワーンに、押し止められる。
「逃げちまえ!」
 カティスは叫んだ。
「歴史も、国も、世界も、未来だって、どうだっていいだろう! 後は何とかする。何とでもしてやる!だからお前らは、逃げろ!」
 アイラシェールはカティスの言葉に振り返った。そして嬉しそうに――この上なく嬉しそうに笑い、だがかぶりを振る。
「どうして!」
「馬鹿! 行かせてやれ!」
 泣き出しそうに顔を歪めて――だが決して泣くことはなく、カイルワーンは叫ぶ。その小さな体を広げて、カティスを押し止めて、アイラシェールの姿を見ることなく、渾身の力で叫ぶ。
「アイラの言葉を聞いてなかったのか! 彼女の気持ちを無駄にさせるな!」
「カイルワーン!」
 アイラシェールは、自分のことを思って争う二人を見つめて、涙をこぼした。
 いつか、宮廷で覇を争った人が聞いた。人生における『勝ち』とは一体何なのだと。
 その答えは、今もって判らない。
 けれども。
「ありがとう……カイルワーン。ありがとう……カティス陛下」
 彼女は『拝謁の露台』に躍り出た。一際沸き上がる、怒号。
 カティスはカイルワーンの腕を掴んだ。カイルワーンは全身の力で、それを押し止めた。
 そして二人は聞いた。後の世まで語り継がれる魔女の呪いを。
 運命の鍵として残る言葉を。
 どん、と音をたてて、カティスはカイルワーンを突き飛ばした。一歩、二歩駆け、だが伸ばした手は届かない。
 赤い軌跡が、目の前ですり抜けて、露台の下に、落ちた――。

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