それでも朝日は昇る 8章11節

「レーゲンスベルグのギルドが徒党を組み、傭兵団を雇い、街を占拠しただと。それに市民は賛同しているのか?」
 命からがらアルベルティーヌ城に辿り着いた元代官、ラスキン男爵に、フィリスはそう問いかけた。
 下官からの知らせを受け、男爵に真っ先に面会したのは彼だった。
 アイラシェールが騎士団員たちに一報を伝えられる前夜のこと。
「城外に放逐された後、門は固く閉ざされたため、その後の街の様子をうかがい知ることはできません。ですが、外から見る限りでは、大きな混乱が起こっているようには見えませんでした。おそらくギルドは領主館だけでなく、街全体の掌握に成功したのだと思います。……市民の大部分は、何らかのギルドと関わりを持っています。徒弟が親方に、使用人が雇用主に逆らうことは生半可なことではありません。市民にとって、実質的な君主は代官の私でも王でもなく、己を雇っている親方、そしてそれを束ねるギルドだったのです」
 力ない言葉に、フィリスは不快そうに顔をしかめた。その言葉は、到底彼には受け入れ難いものだった。
 為政者がどれほど国民のことを考え、慈悲を持って施政に当たっても、金の力の前に理想は屈する。愚かな民衆は、目先のささやかな甘い汁を選ぶ。それはフィリスにとって、耐え難い現実だ。
 男爵からレーゲンスベルグギルド連合から突きつけられたという書状を受け取ったフィリスは、彼を下がらせると、一人封に刃を入れる。
 紙を広げると、中からもう一通封をされた書状が現れた。その二通の書状を前に、フィリスはまず外側に目を通す。
『我々は王領の民にして、王ならびに王家への忠節、親愛の念はいささかも揺らぐものに非ず。
 ならばこそ、ウェンロック陛下崩御に際し、その忠義の念故に立つものである。
 我々は王の民であり、我々が膝を折り、臣従を誓う者は王以外に非ず。
 よって、このアルバに真の王が降り立ち、王権定まるその時まで、我らはありとあらゆる勢力、権力より、完全な独立を宣言するものである。
 我らは全てのものより自由であり、それ故全てのものに公平であり、中立である。
 我らは我らと対等を望む者には分け隔てなく門戸を開き、服従を要求する者にはその全力をもって対峙するであろう』
 レーゲンスベルグ全ギルドの長の署名が記された宣言を、フィリスは渋面で読み進んだ。
 フィリスは思う。レーゲンスベルグギルド連合は、なぜ秘匿してきた事実を、ここまで詳細に得ることができたのだろうか、と。
 そして何より、引っかかりを覚えずにいられないのは、たった一言。
 真の王――それは亡きウェンロック王が憎しみをもって、そしてアレックス侯妃が敬愛をもって口にした言葉。それと全く同じ言い回しを、ギルド連合はしている。
 偶然かもしれない。彼らはこの内乱を勝利し、玉座に就いた者、という意味でこの文言を用いたのかもしれない。だが、しかし――。
 たびたび口にされるこの言葉は、全て同じ意を持っているのか。そして同じ人物を差しているのだろうか。
 だとしたら、それは何者だというのだろう。
 考えても、答えはあらわになりはしない。困惑を解けぬまま、フィリスはもう一通の書状に手をかけ、何気なく目をやり――そして驚く。
 畳まれ、封がされた紙片の表には、一言こう書かれてあった。
 『親愛なるアレックス侯妃へ』
 ひっくり返すと、流麗な文字で差出人の名が書かれてあった。
 脳裏を甦る、あの夜の――エヴァリン公妃が自害したあの夜の、侯妃の泣き声。
 血の気が引いた。
 ためらいはなかった。封を切り、紙片を広げたフィリスの端麗な顔を、動揺に震える。
『この手紙が、君にまで届くかは判らない。けれども届いたのならば、君の記憶のどこかにはまだ残っているであろう僕のことを、どうか思い出してほしい。
 アレックス侯妃。君が間違いなく、僕の知るアイラシェール・ロクサーヌならば、今君は僕などとは比べ物にならない、苦悩と悲痛の中に置かれていることだろう。
 君はここに来て、己の運命について知っただろう。きっとその運命を、そして未来を変えようと血の滲むような努力をしてきただろう。
 その結果、何が起こり、そしてどうなっていったか、僕には判る。なぜならば、僕もまた、君と同じ存在であり、君の運命の糸の片端につながれた存在だからだ。
 多くは語らない。だが判るだろう。
 アイラシェール、僕もまた、ここにいる。
 この名を持つ僕が、この街にいる。それが何を意味するのか。
 だからどうか、僕ともう一度、会ってほしい。
 僕はもう一度君に出会うためにこれまで、ありとあらゆる手段を講じてきた。だがアルベルティーヌ城の門は固く閉ざされ、僕と君との間を阻んできた。だから僕はこの手紙を、レーゲンスベルグギルド連合に託した。
 君は怒るかもしれない。だが正直に告白すれば、今回の一件の中心には、紛れもなく僕がいる。僕は君を思うからこそ、敢えて君の預かる国に反旗を翻した。これ以外に、一介の平民である僕の声が王城の君の耳に届く手段はなかった。
 だからどうか、僕を拒まないでほしい。もし僕の言葉が届いたのならば、僕の名でアルベルティーヌ城の門を開けてほしい。そして、レーゲンスベルグの門はいついかなる時でも、君の真実の名に開かれるだろう。
 僕たちの運命を変える術。それは、君と僕が、あの六月十三日以前にもう一度出会うこと、それ以外にはあり得ないだろう。
 君は僕の運命について、思うところもあるだろう。恐れるところもあるだろう。けれどもどうか、僕の願いを聞き入れてほしい。
 僕がたとえ何者であろうとも、それが君と真正面から向き合わなければならない定めであろうとも、僕は昔と変わらず君を愛している』
 書面の裏、差出人の名を、うわ言のようにフィリスは呟く。
「カイルワーン・リメンブランス……」
 その姓までフィリスは聞いたわけではない。だがもはや疑いようもない。
 アレックス侯妃が――否、アイラシェールという名を持つ、自分が愛する人の過去にいた男。彼女が今もって恋い慕い、涙する男。間違いなく、彼女の心の中の大きな場所を占めているのだろう男。
 間違いなく、こいつだ。
 思わずその手紙を握りしめ、そのくしゃりという音に、フィリスは己の握り拳を見た。それは自分でも信じられないほど震え、己の心を明確に突きつける。
 あの夜、エヴァリン公妃の死を伝えようと訪ねた彼女の寝室。無礼を承知で取り次ぎもせず訪ね入った己の心理を、フィリスは覚えていない。中からベリンダと彼女の声が聞こえ、二人が話し込んでいるのが判って、だから扉を叩こうとして手を挙げて……そして、止まった。
 その時己の心を満たした、今まで一度も感じたことのない感情。それが再び――あの時よりも遥かに強く、心に満ちあふれて己を揺さぶるのをフィリスは感じた。
 そしてその感情が、何と呼ばれるものなのかも、フィリスには判っている。
 もしこの手紙を彼女に渡せば、彼女は喜ぶだろう。会いたいと泣いたその男からの恋文。それはどんなにか、彼女を喜ばせるだろう。
 だが――。
 フィリスが迷ったのは、ほんの数秒だった。握りしめ、くしゃくしゃになった手紙を、文机の上の燭台にかざす。蝋燭の火はたやすく燃え移り、じりじりと広がっていく。
 最後にフィリスの手をわずかに焼き、炎は消えた。微かに残った灰が、はらりと机の上に散る。
 その灰を、フィリスは長いこと睨み続けていた。その顔に浮かんでいたのは、わずかな罪悪感と、紛れもない安堵。
 そして翌朝の朝議は、一通だけ残された書状を前にして行われることとなる。
 円卓の一席に腰を下ろし、アイラシェールが書状を手にする。文面をなぞり、最後に書き連ねられた署名に、目がとまった。
 大層な肩書を帯びた人々の最後、小さく記された署名。肩書も、姓すらないその名に、アイラシェールはああ、と悲鳴に似た小さな呻きを上げた。
「侯妃?」
 訝しむ一同に構わず、アイラシェールは円卓に肘をついてうなだれた。
 予想はしていた。だが、現実にその名を見ると、たまらなく重苦しい気持ちになる。
 内心で、独りごちる。
 賢者様、やはり、あなたなのですね、と。
 書状には、レーゲンスベルグに二十一あるギルドの代表者が執政人として市政を行う、と記されてはいる。だがこの名を見れば、アイラシェールは確信せずにはいられない。
 この反乱を首謀し、そして執政人の代表として街を治めていこうとしているのは――全ての中心にいるのは、間違いなく彼だ。
 ついに彼が歴史の表舞台に現れた、とアイラシェールは戦慄をもって呟く。
 体の芯から沸き上がってくるのは――恐怖。
「この事態を受けて、これから我々はどのような対策を取るべきでしょうか」
 口火を切ったエスターに、フィリスは決然と言い放つ。
「反乱を、黙って見過ごすわけになどいかん。エスター、お前の師団に任せた。至急、出兵の用意をしろ」
「団長。お言葉ですが、レーゲンスベルグは強固な城砦を持っております。一師団を繰り出そうとも、長期戦は必死です。しかも背後に港を背負ったあの街で、兵糧攻めは意味がない。その港から落とそうにも、アルバ海軍の船舶基地自体が当のレーゲンスベルグです。おそらく今頃は、全て沈められているか、強奪されていることでしょう」
 リワードのためらいがちな声が、余計に冷徹に聞こえた。
「生半可ではあの街は落とせない、そうお前は言いたいのだな」
「黙って見過ごすわけにはいきません。見過ごせば、他の大都市にまで飛び火しかねない。ですがそれと、現実にあの街を奪還できるかということは、また別の問題です」
「だからといって、兵力をレーゲンスベルグばかりに集中させるわけにもいかない。アルベルティーヌを空にすれば、ラディアンス派やフレンシャム派につけこまれることとなる。王都を急襲されては、元も子もない」
 フィリスは言って、眉をひそめた。
「もしやレーゲンスベルグの連中は、すでにラディアンス派かフレンシャム派と密約ができているのか? レーゲンスベルグで国軍を引きつけるために、このような反乱を起こした可能性も――」
「それはないでしょう」
 きっぱりと、アイラシェールが否定する。
 史書は全てを語らない。そして今回の反乱も、史書には記されていない事項だ。だが現実にこの時を生き、そして未来に起こることを知っていれば、おのずと推論は出てくる。
 レーゲンスベルグのギルド連合は、イプシラントのカティス王に大量の物資を提供し、その革命を物質的に支えた。とすれば、彼らの――否、賢者の考えていることは、一つだ。
 これは、イプシラントでカティス王が立つための布石なのだ。ならば彼らが、ラディアンス伯やフレンシャム侯と結託することはあり得ない。
 いや、むしろ、今回の黒幕が賢者ならば。
 彼もまた知っているのかもしれない。この後何が起こるかを――決して自分たちが、レーゲンスベルグにまで兵を送ることができないことを。
「彼らの今回の反乱の動機は、誰の味方にもならないことです。ラディアンス伯にしてもフレンシャム侯にしても、レーゲンスベルグは喉から手が出るくらいほしい重要な拠点。優良な港、潤沢な資金を持つ金融業者、質のいい武器や防具を製造できる工房、その材料である鉄を容易に手に入れることのできる立地――全てがこれからの内乱を勝ち抜くに必要な要素です。それは我々としても同じこと。だからこそ彼らは、それを全ての勢力に開放することを餌にし、賭をすることを避けたのでしょう。誰かと結託するということは、その滅亡を共にすることだから、誰とも結託しない」
「それは……つまり?」
「ラディアンス伯、フレンシャム侯、そして我々。誰が勝者となろうと自分たちが生き残れる道は、誰とも結託せず、そして誰とも友好関係を結んでおくこと。だから誰からも独立するし、誰とも取引をする。最後の一文は――彼らの言う自由都市とは、そういう意味でしょう」
 アイラシェールの言葉に、一同は呆れた。
「それでは、要するに……」
「日和見です」
 苦笑と共に答えたアイラシェールの内心は、穏やかではない。
 彼女は彼らに、告げなければならないことがある。
「そして今私たちが考えなければならない火急の問題は、実はレーゲンスベルグだけではありません。兵力が限定される以上、この問題と二択になるのかも」
 一同の視線を感じ、アイラシェールの胸の奥から預言を取り出す。
「ティスリンの方で、軍勢集結の動きがあります。フレンシャム派が冬を前に、行動を開始したようです」
 その言葉は、会議室にざわめきをもたらした。
 ティスリンは、アルベルティーヌの南に位置するフレンシャム派の貴族が持つ領土で、バーナビーのフェルナンダルル男爵領と接している。
「フレンシャム派は侯の子息、アラン卿を盟主に戴いたようです。今は十月、雪が降る前に我らと一戦交えて、足場固めをしておきたいというところでしょう」
「ティスリンとなると当然侵攻先は」
「フェルナンダルル男爵領だろうな」
 バーナビーの言葉に、苦々しくフィリスが答えた。アイラシェールが二択だと言ったのが、痛いほど判った。
 今自軍を割り、レーゲンスベルグとティスリン、両方に派兵するほどの余裕はない。
「まだフレンシャム派は軍勢を整えきってはいません。先手を打てば、大打撃を与えることができるでしょう。しかし、フェルナンダルル男爵領の力だけで対抗するのは無理で、国軍の派兵は必須です。ですが、こちらに派兵すれば、とてもレーゲンスベルグを落とすだけの兵力を用意するのは、現在の我々の財政では不可能です」
 どうしますか? とアイラシェールは問いかけた。
 もう彼女には、答えは判り切っているのだけれども。
 歴史を知るからではなく、誰の目から見ても、戦わなくてはならない相手は明白だ。
「……レーゲンスベルグは、後回ししかありません」
 小さなため息と共にこぼされたリワードの言葉に、フィリスは険しい顔で首を振った。
 それは何かに憑かれたような――何かを焦るような、切迫した眼差し。
「レーゲンスベルグを今放っておけば、後々禍根になる。放置することなどあってはならない」
「フィリス、貴方の言うことは正論です。ですが、現実にどう対処しろというのですか? どんな策があると?」
「しかし……」
「レーゲンスベルグの人口は二十万。レーゲンスベルグギルド連合が人心を掌握すれば、義勇兵で万単位の兵力が用意できるのです。その大軍の籠城に、ラディアンス派とフレンシャム派という敵を抱えた我らが、どう戦うというのですか」
 フィリスは返す言葉がない。アイラシェールが語ることが自明の理なのも、彼には重々承知していた。だが、彼は引くことはできない。
「賢者が――レーゲンスベルグの主が動き出すまでには、まだ時間がある。だからこそ、その前のティスリンで負けるわけにはいかないのです」
 フィリスはきり、と唇を噛みしめた。そしてアイラシェールのこの言葉の陰にある恐れを読み取って、それ以上の反駁をやめた。
 それは直感――だがフィリスは違うことなく真実を読み取る。
 賢者と呼ばれる者。それは書状の署名の最後に名を連ねた、あの男だ。
 そして彼女は紛れもなく、その存在があの男だということを知らず、恐れている。
 それならば、それでいい。今は、それだけで――。
 アイラシェールは知ることはない。どうしてこの時、フィリスがあんなに頑強にレーゲンスベルグへの対処を求めたのか。
 彼が何を恐れ、何を街ごと焼き滅ぼしてしまいたいと思っていたのか――。

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