それでも朝日は昇る 8章12節


 その頃、レーゲンスベルグは昨日から続く、軽い混乱の中にあった。だが街は、急速に落ち着きを取り戻しつつある。
 領主の追放と、ギルド連合による市政の掌握は住民たちに混乱と不安をもたらしはしたが、街中を走りまわった人影と、瞬く間に広がった噂が、人々に理解と安心をもたらした。
「カイルワーン様がそう仰られるのならば。我々もまた苦難を共に分かち合い、乗り越えていきましょう」
 老婆はぎゅっとカイルワーンの手を握り、涙を流しながらそう答えた。
 カイルワーンは制圧の翌日、朝から日が暮れるまで市中を駆けめぐり、不安がる人々を説いて回った。レーゲンスベルグが未曽有の危機にさらされていること、それに対する自衛のために、己がギルド連合を説き伏せて立ったのだということ、そしてこの事態を乗り越えるためには市民全員が一致団結しなければならないこと。
 勿論、全ての者が納得したわけではない。不満をぶつける者も、何てことをしたんだと罵る者もいた。そんな者を説き伏せる――ねじ伏せるのは、意外なことにカティスの仕事になった。
「己で剣を取ることもせず、ただ他人を責めるだけか? 内乱が始まれば、誰に従っていようが、どのみちこの街は襲われる。その時お前は尻尾を巻いて逃げ出すんだろう」
「なに?」
「俺たちがお前を守ってやる。臆病者のお前の代わりに剣を取って、戦ってやる。それが不満ならば、さっさとこの街から出ていけ」
 強い口調で言い放たれた言葉に、男はたじろぎ、そして口を閉ざした。
 混乱や恐慌から、暴動も想定されたが、それはカティスの指示で市内各所に配備されていた傭兵団の面々が鎮圧した。暴虐を働こうとした者たちはたちまち取り押さえられ、それが助けられた市民たちの態度を軟化させた。それは施政者が住民の安全を考えていることを、目に見える形で知らしめたからだ。
「市内の警邏の配置は、今説明した通りだ。輪番は昼夜三交代。取りあえずは俺たちだけでやるが、育成もしたいから早いところ新兵を回してくれ」
 一日カイルワーンについて歩いたカティスは、日暮れのギルドホールでそう言った。
 カイルワーンはギルドホールの中に、自分の部屋を用意された。その中で、カティスと二人向かい合う。
「治安の悪化が一番人の目につく。頼むよ」
 レーゲンスベルグ傭兵団はこれから全軍が市内に留まり、防衛の中枢に回る。これは有事の際だけでなく、普段の治安維持も請け負うことを意味する。
 その全軍の指揮を取るのは、勿論カティスだ。
「ところで、お前に本当のところを聞きたい」
「……何?」
「お前は、城から出兵があると――ここが戦場になると、思っているか?」
 カティスが自分の考えでなく、預言を――未来を求めているのだと、カイルワーンには判った。だから少し考えた後、答える。
「このレーゲンスベルグの独立は、史書に載っていない。だから確としたことは言えないが……おそらく、ない」
「その根拠は?」
「来月、国軍はティスリンでフレンシャム派と一戦を交える。こっちに兵を回している余裕はない。そして返す刀でツェルケニヒでラディアンス派とも一戦。そうなれば、後はもう冬だ。少なくとも、三月までは誰も動けない」
 そして三月になれば――恐怖に近い感情が、カイルワーンの心にきたす。
 そう、三月が来れば、何が起こる?
「これは俺の胸にしまっておく。それを市民に告げて安心させるのもいいが、代わりに警備兵の方がだれる」
「そうだね」
 カイルワーンは心の中の物思いを振り払い、無理矢理笑った。そのぎこちなさを見て取って、カティスは表情を曇らせた。
「無理、するんじゃないぞ」
 その言葉に、カイルワーンは重ねて曖昧に笑うしかない。
 この言葉の通り、この日以来、カイルワーンの日々は多忙を極めるようになった。
 医師としての仕事――患者の求めは減らない。そこに施政人としての責務が重なる。その上彼は、また別の事業に乗り出そうとしていた。
 それは、彼がギルド連合との会議で口にしたこと。
 港の近く、新しく開かれた地域。そこに建てられた施設は、どれも仕切りがなく、内部は大きな一つの部屋で構成されていた。
「一体ここは何なんだ?」
 視察についてきたカティスは、広く何もない、がらんとした部屋に、目を丸くして問いかける。
「工房だよ。新しい形のね」
「工房? ここが? それが何で、こんなにもだだっ広くなきゃなんないんだ?」
「製造の手法がね、根本的に違うんだよ。それを実現するためには、沢山の人間が同じ場所で同時に作業しなければならない。だから、これだけの広さが必要になる」
 カイルワーンはこれから機材や備品が運び込まれる部屋を見渡して、説明を続けた。
「今までの工房では――例えば、鎧を一着作るとする。そうなれば、親方と徒弟が金属を曲げるところから、彫刻や鍍金、最後の飾りつけまでやるだろう? 一つの工房の中で分担はあるだろうけど、基本的には一人で全ての工程を最初から最後までやって、一つのものを完成させる」
「ああ」
「ここでは、一人の人間は一つの作業しかしない。板を曲げる者は曲げることしか、ネジを回す者は回すことしか、革ベルトをとめる者はとめることしかしない。自分の工程が終わったら、次の工程を行う隣の者に、どんどん物を渡していき、前の作業している者に渡された者に、自分の工程を施す。ここでは、そういう風にして物を作る」
「それって、一つの物をえらく大人数で作るってことだろ。それって、人件費がかさんで仕方ないんじゃないか?」
 うん、と頷いて、でも、とカイルワーンは答えた。
「一つ二つ物を作る時には、確かに効率がいいとは言えないんだ。でも、何千という単位で物を作ることになった時、この方法は格段に効率がよくなる。一個の物を作れる人間を百人集めるのも、百人で百個の物を作るのも、人件費は一緒だろう? 人間って、同じ作業を何百回、何千回と繰り返していくと、作業速度が格段に上がるようになるんだ。試してみれば、判るよ」
 それに、とカイルワーンは複雑な笑みを浮かべた。
「たった一つの工程をこなすだけだったら、長い修行を積んだ熟練工じゃなくてもいいし」
 その言葉に、カティスは表情を歪めた。
「……それは手工業関係のギルドの有り様を、根底から揺るがすことじゃないか」
 カティスが抱いているのは、自分がギルドを敵に回しかねない、という危惧。それを見越して、カイルワーンはやんわりと笑って首を振った。
「カティス、今、時代は変革の中にある。この時代を分岐点に、アルバは――世界は、変化を遂げる」
「……お前はそのために、遣わされてきたのか。未来の知識を持って、世界を変えるために」
「それは違うよ。確かに僕が始めたことは沢山ある。それは一般化のきっかけを作っただけであって、僕が始めなくても、遅かれ早かれ誰かが始めたんだ。僕が何をしなくても、いずれジャガイモは食べられただろうし、活版印刷も発明されただろう。そして今僕がここで工場を作らなくても、必ず誰かが思いついて始めた。これが生産効率を上げるのに、有益な方法なのは自明の理だからだ。事実、アルバでは僕が最初に始めたことを、すでに取り入れている国は幾つもある」
 がらんとした、空虚な部屋で、カイルワーンはカティスを見上げて説いた。
「なあ、カティス。最近僕は思うんだ。変革というものは、時代が行うものであって、個人が行うものではないのかもしれない。個々の意思ではなく総意がそれを望んだ時、おのずとそれを成し遂げるだけの環境が整い、それに向かって必要な人材が動き出す――いや、動かされる」
 歴史の繰り人形――そう己を表現し、全力を持ってそれを否定しようとしたはずのカイルワーンが今口にした言葉に、カティスは胸の奥が痛む。
 そうなのかもしれない、と理性は思う。カイルワーンの言う通りなのかもしれないと。だが感情は叫ぶのだ。
 否定はできないのかもしれない。逆らうこともできないのかもしれない。
 だったらなぜ、それを知らねばならなかったのだと。
 全身で、気が狂わんばかりに叫びたかった。
 どうして自分たちは、それを知らなければならなかったのだ。
 変えられないのならば、なぜ知らなければならなかった。
 知ったことで、苦しみが募るばかりだというのに。
「変化は、変革は、おそらく個人の意思で止められるものじゃないんだ」
 流されていく空しさを、己の無力さを、一番知っているのはカイルワーンなのだろう、とカティスは思っている。どんなに空しくても、望まなくても、成さねばならない――成さざるを得ないものが目の前に積まれていくのが彼だ。
 それは彼の意思ではない。だが、彼の行ったことに対する責任を取るのは――彼の行いに対して、人々が抱く感情――尊敬や感謝だけでなく、妬みや嫉み、憎しみを背負うのは、彼自身なのだ。
 やがてこのカティスの、そしてフロリックの懸念は、的中する。

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